蕩尽を尽くしてなお埋まらぬ欠落自体を描くのではなく、おびただしい蕩尽のディティールによって欠落を浮かび上がらせるのが村上龍。
それがドラッグでありセックスであり暴力であるが、依存するのではなくそれらは生存のための手段でしかない。
村上龍を、マッチョでスノッブな「成熟した大人」の作家として読む。
じつに、安い読解である。
セックス、暴力、金、ワイン、料理、ホテル、車、海外経験。
世界の仕組みを知り、自分を律し、欲望を選別し、一流と二流を見分ける。そこに完成された男性像を見る。
何も読めていない。
村上龍が書いているのは、むしろ、「一流を知る成熟した大人」という自己像の、容赦ない解体である。
世界を知っている。女を知っている。金の使い方を知っている。うまいものを知っている。いいホテルを知っている。素人と玄人を見分けられる。
その「知っている」の堆積が、村上龍のテクストでは次第に滑稽なものへ変わっていく。
なぜなら、その鎧の内側にいる人間は、少しも完成していないからだ。
『限りなく透明に近いブルー』を異様な小説にしているのは、セックスやドラッグではない。皮膚、血、光、虫、食べ物、匂い、音。世界の細部が、皮膚を直接こするような解像度で迫ってくる。
そこにいるのは世界を支配する強者ではない。刺激を遮断できない、無防備な身体だ。
強さが書かれているのではない。強さを必要とするほどの脆さが書かれている。
『コインロッカー・ベイビーズ』の中心にあるのも、巨大な暴力ではない。捨てられた子供だ。
巨大な音、巨大な都市、巨大な破壊。
小さなものが、小さいままでは生き延びられない。だから巨大になる。
料理、ワイン、車、ホテル、音楽、服。村上龍が執拗に書き込む固有名詞も同じである。
それを「一流を知る男」の審美眼としてありがたがるのは、小説のアイロニーを、そのまま人生訓として受け取る間抜けだけだろう。
ここに村上龍をめぐる最も倒錯した誤読がある。
彼が戯画化している「大人」に憧れ、その身振りを模倣し、それを村上龍の思想だと思い込む。
アイロニーの標的になっている人間が、アイロニーを自分への賛辞だと思っている。
村上龍が書いているのは、成熟ではない。
傷つきやすい身体。捨てられる子供。消えてしまう美しいもの。世界から切断されることへの恐怖。それでも世界に触れていたいという欲望。
だからセックスがあり、暴力があり、爆音があり、美食がある。
まだ感じられるか。
その問いが、ずっと身体に突きつけられている。
マッチョイズムもスノビズムも、その問いを覆う鎧にすぎない。
その鎧を「成熟した男の美学」として鑑賞するのは、村上龍を読むことではない。
村上龍が笑っているものを、真顔でありがたがっているだけである。




