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等身大の自分を度外視して高い理想ばかり掲げるのも強い自己否定の一種であり、自己受容できている状態は自分の等身大をベースにした上で理想を作れることで自分の能力や体力、体調、性格や得意不得意を把握した上で、現実的にどこまでできるのか、何を伸ばしていきたいのかを考えられて、理想と現実の間にギャップがあっても、それを自分の価値の問題にせず、必要に応じて目標や方法を調整できる。
自己否定が強い状態は、今の自分を受け入れられないからこそ理想の自分に執着し、そこに到達できない現実を突きつけられるたびにさらに自己否定を強めたり、等身大の自分について言及してくる人に強い敵意を抱いたりする。理想が自分を成長させるための目標ではなく、今の自分を否定するための物差しにしかなっておらず、どれだけ努力しても満足できず、現実を正確に把握することさえ脅威になってしまう。
自己受容は理想を諦めることでも現状に甘んじることでもなく、今の自分を否定せずに出発点として扱えること。
さらに自己否定が極まると、現実の自分を少しずつ理想に近づけるのではなく、理想の自分がすでに実現している仮想空間に棲みつくようになる。そこでは自分が何を実際にできるかではなく「自分はこういう人間であるはずだ」という自己像を維持することが優先され、現実との矛盾が生じるたびに自己認識を修正することが無くなる。
その自己像を長期間演じ続けていると、自分が本当に望んでいることと、理想の自分なら望むはずのことさえ区別がつかなくなっていく。本来は自己否定から逃れるために作り上げた理想の自分なのに、今度はその理想の自分を守るために現実の自分をますます否定しなければならなくなり、自己受容がないまま理想だけを肥大化させると、努力すればするほど自分自身から遠ざかってしまうという逆説が起こる。
よく人と会っているのに不思議と気疲れしない人は、他人の話を聞くときにいちいち自我を発動させないことがデフォルトになっている。
自分を抑圧しているわけでも、他人に無関心なわけでもなく「自分が同じ立場ならどうするか」「自分ならどう思うか」という解釈を逐一差し込まない。相手の話を相手の世界の出来事として受け取れるから、自分の価値観と照合して賛否を決めたり、理解できない部分を無理に納得しようとしたりする認知的な作業が起こらない。
気疲れしやすいパターンは、他人の話を聞くたびに自分の価値観や経験と照らし合わせ、解釈のズレが生じるたびに違和感を処理したり、頭の中で反論したり、辻褄を合わせようとしたりしてしまう。他人の話に自分の解釈が一致する必要なんてないし、理解することと同意することも別の話なので、その不協和音をいちいち発生させなければ余計な認知的負荷がかからずに済む。他人の世界を自分の物差しで見る癖を少しずつ無くしていくと、自分と他人の境界が自然に保たれて、人とたくさん会っても不思議と消耗しにくい。
たとえば、誰かが自分には到底理解できない選択をしたときに「私だったら絶対にそんなことしない」と考える人もいれば、「この人にはどういう事情や価値観があって、その選択が合理的になったんだろう」と考える人もいる。
後者は自分の意見を持っていないわけではなく、自分の世界と相手の世界はそれぞれ独立したものだという前提があり、自分には理解できない事情や価値観を想像すること自体がストレスにならない。
他人と話を聞くことに疲れやすい人は、どこかで他人の事情や判断も自分の理解できる範囲に収められるはずだと思っている節があり、理解できない選択に出会うたびに「なぜそんなことをするのか」「どうしてそう考えるのか」と辻褄を合わせようとしてしまう。他人の人生は自分が納得できるようにできているわけではないし、理解できたところで相手の選択をコントロールできるわけでもない。解釈や修正を試みずに済めば認知的な消耗も少なくなる。
栄養が足りていても、過緊張が強ければ甘いものへの欲求がずっと強くなる場合がある。緊張状態が続くことでエネルギーの消耗が強くなり、手っ取り早く落ち着けるものとして甘いものを欲する。
食べた直後は一時的に落ち着いても、急激な血糖変動が起きる人では、その後の血糖低下に伴うカテコラミンの反応によって焦燥感や動悸が出たり、夜間であれば睡眠が妨げられたりすることもある。十分に回復できないまま翌日を迎えると、また落ち着くものが欲しくなるし、睡眠の質の悪さ自体が耐糖能を低下させて、ますます血糖調節が不安定になりやすい。過緊張による消耗感と睡眠の質の悪さが互いを強め合い、回復できないから甘いものを求め、甘いものを求めることでさらに回復しにくくなるという負のループに陥っている場合もある。
そこに進むべきではない、留まるべきではない環境にいるときって、普通だったらありえないような、予測も対策もできないアクシデントが立て続けに起こって、そこから離れろというサインが頻繁に出る。一つひとつは偶然だったとしても、あまりにも重なると、もはや自分の努力や工夫でどうにかできる問題ではなく、その環境自体との相性を疑ったほうがいい。進んだほうがいい方向に向かっているときは、これでもかというほどスムーズに物事が進んでいく。必要な人との縁が自然につながったり、タイミングが不思議なくらい噛み合ったり、変なアクシデントも起こることもなければ、自分が無理に動かなくても次々と道が開けていく。
これに関しては精神科医の松本俊彦先生がよく論じていることだけど、生育環境の中でよく人から褒められたり、成功体験を積み重ねたりして、日常生活の中で健全に報酬を得る経験を積み重ねてきた人は、そうでない人に比べてケミカルな物質による快感に圧倒され、依存に陥るリスクが低いそうで、同じ逸脱行為をしていても、純粋に体験の面白さや好奇心から興味の範囲で逸脱する人と、忘れたい苦痛や埋め合わせたい欠乏があって逸脱する人とでは溺れ方が全く違う。
村上龍があれだけ派手な世界に身を置きながら破滅せず、膨大な仕事を継続できたのは、刺激を求めていても現実から逃避していたわけではなかったことと、強烈な体験をしたあとに、それを観察し、言語化し、作品へと変換する能力があったからだと思う。本人も語っているように、刺激を消費するだけで終わらず、創作そのものからも報酬を得られていたので、どれほど強烈な体験をしても、そこに留まり続ける必要がなかった。刺激はあくまで創作のためのステップであって、刺激のための人生ではない。
共感性の無さが光属性として機能している人、身の回りのあらゆることを好き嫌いのような感覚ではなく、すべて「リソース」という概念で運用していて、とても生きやすそうだなと思う。リソースを割きたいか、割いても無駄でしかないかというシンプルな基準だけで物事を見ていて、嫌いな相手に執着して攻撃することもなければ、際限なく他人の問題を背負い込むこともない。興味のないものには余計な感情も労力も使わず、大切にしたいものには惜しみなくリソースを割く。共感性の乏しさが冷酷さではなく、他人への恨みや執着を持たないという形で機能しているのが面白い。
リソースという概念で物事を判断できる人は、相手が間違っているかどうかと、その間違いを正すために自分の時間を使う価値があるかどうかを、完全に切り離して考えられる。どれほど理不尽でも、そこに自分が介入する利益がなければ、正しさを証明する必要すら感じない。相手を嫌い続けることにも、反省させることにも、自分の人生を面白くする効果がなければ関心を向けようとしない。
体力おばけでもないのに何とか上手くやれている人って中医学でいう気滞や気虚のような、自分が今どういう状態にあるのかを感覚的に見分けるのが上手い。
滞っているようなときは、その勢いを利用して初めての場所に行ったり、人と会ったり、何かに打ち込んだりするし、逆に虚しているときは親しい人とも社交を減らして、余計な刺激を入れずに回復を優先する。疲れているから休む、元気だから動くという単純な判断ではなく、今の自分に必要なのが発散なのか、補充なのかを見極めて滞っているときに何もしないと余計に煮詰まることもあるし、虚しているときに気分転換しようと予定を詰め込めばさらに消耗する。
体力そのものが人一倍あるわけではなくても、自分の状態に逆らわず、その時々で負荷のかけ方を変えられるだけでも回復の仕方は変わる。
言い方を工夫せずに言葉を反射的に投げてしまう人は、必ずしも言い方を工夫する能力がないわけではなく、自分はこれだけ嫌な思いをしたのに、それをそのまま相手にぶつけなければ自分だけが損をするという復讐心を抱えていることがある。
自分はこれだけ不快な思いをさせられたのだから、相手にも同じだけ不快な思いをしてもらわなければ釣り合わない。言い方を工夫して相手が受け取りやすい形に変換してしまうと、自分の怒りが割り引かれたように感じる。
そもそもこれは、自分の感情を正当に扱うことと、自分の感情を相手にそのままぶつけることを混同していて、自分の感情を尊重することと、相手が受け取りやすいように言葉を選ぶことは何も矛盾しないんですよね。現実的には、言い方を工夫したほうが自分の言い分を理解してもらえたり、要求を受け入れてもらえたりすることのほうがはるかに多いのに、相手に不快感を与えること自体が目的になってしまう。
ずっと他人の機嫌を損ねないことや、波風を立てないことを優先してきた「いい子」を演じてきた人も、言葉を選ぶという行為そのものが、かつて自分を抑圧していた経験と結びついていることもあり、大人になってようやく自分の怒りを表現できるようになっても、今度は言い方を工夫することまで自己犠牲だと感じやすくなり過去に表現できなかった怒りまで重なって「我慢するか、爆発させるか」の二択しか許されなかったために、その中間にある自由な自己表現を獲得できていない。
村上龍はLUNA SEAの「BLUE TRANSPARENCY 限りなく透明に近いブルー」から知って、気づけば小説やエッセイも読み漁りました。
80年代後半~90年代特有の空気感を描いた過去の遺物として見るのではなく、むしろ今の時代だからこそ、村上龍の作品が持っていたような、社会に適応できない人間の怒りや欲望、孤独や絶望を、安易に美化したり救済したりしない文学が必要なのではないかと思います。人間の苦しみには必ず意味があり、物語の最後には何らかの救済や成長がなければならないという期待そのものを拒否し、どうしようもない人間がどうしようもないまま生きている現実を、無理に肯定することも否定することもなく描き切るところに、村上龍の作品の魅力がある。心より哀悼の意を表します。
トラウマは連想によって当時の苦痛や恐怖が呼び起こされるものだから、助けてくれたかどうかに関係なく、その出来事を思い出させる土地や友人、自分の好きな音楽でさえも避ける対象になってしまうこともある。
助けてくれた命の恩人である大切な存在であることと、その人の存在がつらい記憶を呼び起こすことは普通に両立するし、感謝しているからこそ関わり続けられるわけでもない。いつか当時の記憶を思い出しても苦痛に飲み込まれないくらいに回復が進んだら、再び縁がつながることもあるかもしれないし、少なくとも今の距離が、それまでの友情や助けたことの価値を否定するものではないと思います。
>いくつものステップこそが交際の本質
まさにこれで、モテる人は当たり前のようにこの認識を持っているけど、「途中まで良い感じだったのに」ってよく嘆く人は交際にゴールのような概念があると思っているし、相手との距離が縮まるまでの過程を楽しむ体力がなく、「ここまで来たんだからもうゴールだよね?何しても良いよね?」と、それまで保っていた配慮や距離感を急に放棄してしまう。相手からすれば、関係が深まるほど大切にされると思っていたのに、親しくなった途端に雑に扱われるわけだからそりゃ怖くなる。
優しさや気遣いも、自分を本当に大切に思ってくれていたからではなく、自分が望むゴールに辿り着くための茶番でしかなかったのかと落胆している人と、「もうここまで来たんだからもう頑張らなくていいよね?」と安心している人の感覚が噛み合うわけがないし、両者ともに関係を築くことへの認識が違いすぎる。








