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いまだに「ハン」と「ハーン」はどっちでもいいと思っている人がいますので、明確に違うことを知っていただきたい。
#モンゴル史
#モンゴル帝国
#世界史
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【謎の言語・民族「トカラ」とは?】
現在では新疆ウイグル自治区と呼ばれ、ウイグル人と呼ばれながらも雑多な多民族である理由は、テュルク化する以前を知らなければならない。
今から約3,800年前、紀元前1800年ごろ、この地域には古代北ユーラシア人(ANE)に関連する系統の人種が住んでおり、有名なのが楼蘭遺跡で発掘された「ローランの美女」のミイラです(図1)。彼女は当初コーカソイドと考えられましたが、現在では古代北ユーラシア人とされています。
そこから時は流れ、漢の時代のタリム盆地周辺では車師、焉耆、亀茲、楼蘭、于闐、疏勒、莎車などのオアシス都市国家があり、月氏、匈奴などの遊牧騎馬民族の支配を受けていました(図2)。
かの有名な張騫の西域旅行により、当時の中央アジアの様子が記録され、タリム盆地にはさっきのオアシス国家たち、中央アジアには康居、大苑、大月氏、大夏、安息といった国がありました。やがて大月氏はクシャーナ朝に代わります(図3)。
時は流れ、19世紀から20世紀初頭にかけて、タリム盆地の北東部(トルファン、クチャ、カラシャール)で謎の言語であるトカラ語(A・B)が発見され(図4)、印欧系で紀元前1000年から紀元後10世紀まで使用されたことがわかりました。名称の由来はトカラ語文書の中に「サンスクリット語からトクリ語に、トクリ語からテュルク語に翻訳」とあったことが由来です。(ちなみにタリム盆地南道ではカローシュティー文字・ガンダーラ語文化があった)
一方で古代ギリシヤ・ローマ史料に「トカロイ」という遊牧騎馬民族が出てきて、グレコ・バクトリア王国を滅ぼし、その地(アフガニスタン北部)に根付いたことが記されました。その後中国史料で5〜6世紀に「吐火羅国」が登場し、のちに「トハーリスターン」と呼ばれます。また、玄奘の『大唐西域記』ではアフガニスタン北部の「覩貨邏国」の他にタリム盆地の「覩貨邏の旧地」という地名が登場します。
この言語の「トカラ」と民族名・地名の「トカラ」の関連性は不明ですが、東西トルキスタンを跨いで存在したワードは月氏と関連づけられ、月氏人=トカラ人とされ、古代ギリシヤ・ローマでのトカロイは月氏であり、大月氏として根付いたことにつなげることがあります。(ちなみに大月氏の後継国家クシャーナ朝の公用語は現地語であるイラン系バクトリア語が採用され、トカラ語ではない)
この辺は中央ユーラシア史において非常にロマン掻き立てられる部分です。
タリム盆地は10世紀以降、天山ウイグル(高昌回鶻)とカラハン朝の影響で、トカラ語・ガンダーラ語からテュルク語に変わっていくこととなります。
何かと話題になる「ウイグル人」とはなんなのか?
世界史を学んだ人で古代のウイグル(回鶻)の子孫だと勘違いされてる人が多いと思いますが、実は別系統の民族なのです。
古代ウイグル(回鶻)とは8〜9世紀ごろにモンゴル高原を支配した遊牧騎馬民族でした(図1)。しかし、そのウイグル可汗国は内紛によってバラバラとなり、あるグループは甘州ウイグルになり、あるグループは天山ウイグルになり(図2)、あるグループはナイマンになりました。
時は流れ、13世紀モンゴル帝国の時代、天山ウイグル王国はまだ天山地方にいましたが、西遼(カラ・キタイ)の圧政に耐えかねて即位したばかりのチンギス・カンに臣従し、モンゴル帝国に組み込まれます。そして元朝の時代に完全に消滅し、ウイグルという名も忘れ去られてしまいます。
時は流れ、タリム盆地周辺はチャガタイ・ウルス、モグーリスタン・ハン国、ヤルカンド・ハン国とモンゴル国家が形成されますが、言語的にはテュルク系の南東語群の住民が満ちていました。この言語は古代ウイグルの東部語群とは違う、カルルクの系統で、宗教はイスラム教でした。
そんな中、ジュンガルがこの地を支配しますが、モンゴル系であるオイラト語には染まりませんでした。その後清朝がこの地を支配し、「新疆」という名前をつけ、新疆省とします(図3)。
この頃彼らには統一的な民族名はなく、ただカシュガル人や、ヤルカンド人、トゥルファン人、ホータン人、タランチ、テュルク人などで自認していました。
しかし、清朝の支配下で彼らの不満が募り、辛亥革命で清朝が倒れるとそれが爆発して独立を決意します。そこで彼らの民族名がバラバラだったので統一しようと考えます。ある知識人が古代に「ウイグル」という名前があったことを見つけます。「ジュンガル」や「モグール」といったモンゴル系ではないテュルク人としてちょうど良い名称でしたので、1934年、盛世才政権下の新疆省政府が「ウイグル(維吾爾)」を公式民族名称として採用しました(図4)。
そして「東トルキスタン共和国」を建国しますが、そもそも統一した民族でなかったために短期で崩壊、そうこうしてる間に中華人民共和国の人民解放軍がやって来て新疆はあっという間に掌握され(1949年)、現在の新疆ウイグル自治区となりました。
以降はみなさんの知るありさまです。
ティムール朝の面白いところは名目上のハンを置いたことです。いわゆる西チャガタイ・ハンですが、そのほとんどは傀儡ハンでした。そしてティムール朝の君主はハンではなくアミールやスルターンを名乗りました。さらに初めの頃はティムール朝君主はハンの臣下のていでしたが、のちには逆転してしまいます。
出典が全くなかったWikipediaのティムール朝を出典をつけて大幅加筆しました。ティムールって強すぎ!
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83…
モンゴル史の5大改悪のラスト。「モンゴル帝国はあんなに巨大だったのに短命に終わった」
と思う人がいるようですが、チンギス・カン〜モンケ・カアンまでがモンゴル帝国ではありません。モンゴル帝国は初代チンギス・カンから第41代のエジェイ・ハーンまで、1206年から1635年までの429年間という長期王朝でした。これはアッバース朝(508年)に次ぐ長さです。
第5代のクビライは「大モンゴル国」を「大元大モンゴル国」に改名しただけで、いわゆる元朝もモンゴル帝国だし、その後の北元もモンゴル帝国だし、その後のドチン・モンゴルもモンゴル帝国で、国名は「大元大モンゴル国」のままです。大きさは次第に小さくなって行きましたが、最後のエジェイ・ハーンが清朝に玉璽を渡すまでモンゴル帝国なのです。
ティムールは14世紀の人物であり、同時代の写実的な肖像画がないにも関わらず、現在ではなぜこのように詳細な銅像や胸像があるのか?
同時代の記述では「背が高く肩幅が広い。大きな頭と濃い眉、あごひげを生やしていた。長い手足を持っていたが、右脚は不自由だった。目は蝋燭のようではあるが、光は無かった」とあり、片足が不自由な人を意味する「タメルラン」とも呼ばれていました。
そんなティムールの遺体はサマルカンドのグーリ・アミール廟に安置されており、比較的無傷だったため、1941年5月から6月にかけてソビエト連邦の調査隊がグーリ・アミール廟の調査を行い、ミハイル・ゲラシモフによってティムールの遺体も調べられ、その頭蓋骨から顔を復元したのです。この時の調査によって、ティムールは赤色の髭を生やしていたこと、手・肘・膝の3か所に矢傷を負っていたことが判明しました。ゲラシモフはティムールだけでなく、ティムール朝のシャー・ルフ、ウルグ・ベク、ミーラーン・シャーの顔も復元しています。
ティムールはチンギスカンの子孫だと勘違いしてる人がいますが、違います。彼はモンゴル族バルラス氏の子孫でバルラス部の人物です。バルラス氏族はモンゴル族ボルジギン氏族の第7代当主トンビナイ・セチェンの子カチュラの子孫で、チンギスカンはトンビナイ・セチェンの子カブル・カンの子孫であるキヤト氏族の一派(キヤト・ボルジギン氏)です。
ではティムールはなぜチンギスカンと関わりがあるのかというと、チンギスカンの子孫であるチャガタイ・ウルスの最後のハン、カザン・ハンの娘サライ・ムルク・ハヌムを娶ったからです。これによりティムールは「キュレゲン(婿)」になりましたが、直系ではないため「ハン」には即位しませんでした。
ムガル帝国初代皇帝バーブルも同じで、彼の父方はティムールの子孫、母方がチンギスカンの子孫であるモグーリスタン・ハンの娘クトルグ・ニガール・ハーヌムの子でした。男系ではなく女系ということです。
【天山ウイグル王国(高昌回鶻)とは】
840年、モンゴル高原の回鶻(ウイグル)可汗国が崩壊すると、各グループは各テギン(王子)を奉じて四散し、そのうち厖(ぼう)テギンの15部は西のカルルクに亡命しようと西走したが、途中で南下して焉耆(アルク)に落ち着き、北庭(ビシュバリク)地方には僕固俊率いる一派が割拠しました。そのままカルルクへ西走した一派はのちにカラハン朝を創始することとなります。厖テギンは焉耆にて可汗(カガン)に即位し、北庭(ビシュバリク)や西州(高昌)などを中心に天山ウイグル可汗国(高昌回鶻)を建国しました。
しかし残念ながら9世紀〜11世紀は記録が不鮮明な時代が続きます。宗教は10世紀以降になるとそれまでマニ教だったのが仏教になりました。たびたび隣国であるイスラム教国のカラハン朝と争いました。
12世紀には契丹族の西遼(カラ・キタイ)の侵攻に遭い、カラハン朝共々属国になります。おそらくこの頃から君主号を可汗(カガン)ではなく、イディクートを使うようになりました。
13世紀、カラ・キタイの圧政に苦しんでいたイディクートのバルチュク・アルト・テギンはその支配を脱し、新進気鋭のチンギスカンにいち早く臣従しました。
以降はモンゴル帝国の属国となり、「第5位の世嗣」と称されるほど尊重されましたが、クビライvsカイドゥの内乱の中、天山ウイグル王国は消滅しました。
ちなみに現在のウイグル人はこの天山ウイグルの子孫ではなく、むしろカラハン朝およびチャガタイ・ウルスの子孫であり、名前だけを借りたに過ぎません。
ティムールはチンギスカンの子孫だと勘違いしてる人がいますが、違います。彼はモンゴル族バルラス氏の子孫でバルラス部の人物です。バルラス氏族はモンゴル族ボルジギン氏族の第7代当主トンビナイ・セチェンの子カチュラの子孫で、チンギスカンはトンビナイ・セチェンの子カブル・カンの子孫であるキヤト氏族の一派(キヤト・ボルジギン氏)です。
ではティムールはなぜチンギスカンと関わりがあるのかというと、チンギスカンの子孫であるチャガタイ・ウルスの最後のハン、カザン・ハンの娘サライ・ムルク・ハヌムを娶ったからです。これによりティムールは「キュレゲン(婿)」になりましたが、直系ではないため「ハン」には即位しませんでした。
ムガル帝国初代皇帝バーブルも同じで、彼の父方はティムールの子孫、母方がチンギスカンの子孫であるモグーリスタン・ハンの娘クトルグ・ニガール・ハーヌムの子でした。男系ではなく女系ということです。
この間違いだらけの『最新世界史図表』(第一学習社)を修正してみました。このように一昔前の地図では謎の「タタール(韃靼)」と「オイラト」を分けて描くことが多いですが、これは大元大モンゴル国(モンゴル帝国)のままであり、同じ政体です。その中に「四十モンゴル」と「四オイラト」がいるのです。
1449年の土木の変は「オイラトのエセン=ハンが明に侵入」と書かれますが、そうではなく「モンゴル帝国のタイシ(宰相)であるオイラト出身のエセンが明に侵入」と書くべきなのです。この時のハーンは第27代タイスン・ハーン(トクトア・ブハ)です。エセンがハーン位を簒奪するのはこの後の1453年で、しかも「ハン」ではなく第29代「ハーン」です。
またこの地図に「ウイグル」とありますが、ウイグルは元朝期に滅んでますし、「ティムール帝国」ではなく、ティムール朝支配下のモグーリスタン・ハン国の間違いです。
何かと話題になる「ウイグル人」とはなんなのか?
世界史を学んだ人で古代のウイグル(回鶻)の子孫だと勘違いされてる人が多いと思いますが、実は別系統の民族なのです。
古代ウイグル(回鶻)とは8〜9世紀ごろにモンゴル高原を支配した遊牧騎馬民族でした(図1)。しかし、そのウイグル可汗国は内紛によってバラバラとなり、あるグループは甘州ウイグルになり、あるグループは天山ウイグルになり(図2)、あるグループはナイマンになりました。
時は流れ、13世紀モンゴル帝国の時代、天山ウイグル王国はまだ天山地方にいましたが、西遼(カラ・キタイ)の圧政に耐えかねて即位したばかりのチンギス・カンに臣従し、モンゴル帝国に組み込まれます。そして元朝の時代に完全に消滅し、ウイグルという名も忘れ去られてしまいます。
時は流れ、タリム盆地周辺はチャガタイ・ウルス、モグーリスタン・ハン国、ヤルカンド・ハン国とモンゴル国家が形成されますが、言語的にはテュルク系の南東語群の住民が満ちていました。この言語は古代ウイグルの東部語群とは違う、カルルクの系統で、宗教はイスラム教でした。
そんな中、ジュンガルがこの地を支配しますが、モンゴル系であるオイラト語には染まりませんでした。その後清朝がこの地を支配し、「新疆」という名前をつけ、新疆省とします(図3)。
この頃彼らには統一的な民族名はなく、ただカシュガル人や、ヤルカンド人、トゥルファン人、ホータン人、タランチ、テュルク人などで自認していました。
しかし、清朝の支配下で彼らの不満が募り、辛亥革命で清朝が倒れるとそれが爆発して独立を決意します。そこで彼らの民族名がバラバラだったので統一しようと考えます。ある知識人が古代に「ウイグル」という名前があったことを見つけます。「ジュンガル」や「モグール」といったモンゴル系ではないテュルク人としてちょうど良い名称でしたので、1934年、盛世才政権下の新疆省政府が「ウイグル(維吾爾)」を公式民族名称として採用しました(図4)。
そして「東トルキスタン共和国」を建国しますが、そもそも統一した民族でなかったために短期で崩壊、そうこうしてる間に中華人民共和国の人民解放軍がやって来て新疆はあっという間に掌握され(1949年)、現在の新疆ウイグル自治区となりました。
以降はみなさんの知るありさまです。
結局影響力のある人物の一言ってでかいよな
【大どんでん返し】朝青龍、モンゴル火災の報道に異議
モビコム社員が釣りをしようと保護区に入り火災発生、モンゴル政府がKDDI系に巨額賠償要求、と報道
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朝青龍「一方的な日本人が悪いじゃなくて、現地で連れて行ったモンゴル国会議員たちは言わないの?」
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その後「 モビコム社員は国境港湾局の要請で訪問、移動中はモビコム社員の車両の前後に当局の車両が走行する体制だったが、モビコム社員が乗る車から発煙」とKDDIが説明
最初KDDIが叩かれてる時から朝青龍は疑問を呈し、その後KDDIが当局同行だったと説明、朝青龍と言ってることが完全一致。朝青龍はその後も報道の圧力についてつぶやいてたけど、一体どこまで知ってるんだろ(笑)どちらにしてもこのまま潰されかねなかったKDDIからしたら最高の救世主だよな。報道の圧力とか全く気にしないで呟いちゃう朝青龍、かっこよすぎる。さすが元横綱。
zakzak.co.jp/article/2026102…
















































